つらつら考えること
小坂 圭太(文教育学部 助教授)
自分は音楽演奏を生業としてきた人間ですので、凡そ授業中に話す内容なども、飛躍・矛盾・固執・独善・偏見に満ち満ちていると自覚しており、ここにエッセイを書く立場になる事だけはあるまいと思っていたので困惑しておりますが、日頃感じている事や悩み?について書いてみたいと思います。
授業形態自体、音楽実技系の科目では演習もしくは個人レッスンが中心で他の教科に比べ特殊性が強いですが、では一般音大のカリキュラムと同じかといえば一般音大のように一年から専攻別になっている訳ではないので、外に謳っている通り、他に非常に類例のない学科だとは思います。そんな中、私なりに、本学本コースの学生と所謂音大ピアノ科の学生像と比べてみると、理解力があり勉強のノウハウと要領を会得した真面目な努力家が多い反面、学科の勉強と両立してきた事の時間的制約で、練習の「量こそ質」とも言うべき年代を経てきていない、そのため解る事と出来る事との距離感が身体感覚化されていない傾向にあります。そして大学入学後も、俗にお茶大三大忙し科の一角と言われるようなスケジュール、しかも音大に比べ絶対的に少ないスタッフ数のカリキュラム(仮にピアノ演奏学で卒業を希望する学部学生全員に音大並みに毎週45分の個人レッスンをするとしたら、私はそれだけで週19コマ38時間働かねばなりません!)ですから、本来必要とされる試行錯誤や無駄さえをも全く削ぎ落とした分量で、必要十分な内容を伝達していかざるを得ない、というタイトな状況にある訳です。そうした中で、今回の科目「ピアノ表現基礎論」を含む演習系の科目では、多くの人が抱えている問題点を集約し、それをある解り易い視点でキャッチフレーズ化(例えば今年度は、親指・人差し指の独立という目標に対し「手は三本とみなそう」を標榜)、その上で使用教材をその文脈で切り捌く、という方法を採用しています。そうする事で個人レッスンでは各人固有の問題に特化した取り組みが出来、効率化を図って? いるのです。
ですので、そうしたこちら側の取り組みが学生側に好意的に受けとめられているとしたら、それ自体は嬉しい事ですが、ひょっとすると先に書いた、解る事と出来る事とのギャップはそのまま(内容のストラクチュアでなく、話のストラクチュアが解っただけだとしたら、前より以上に)残されてるのかも知れない、と不安でもあります。本来、こういう事の伝達は、「暮しの手帖」の花森安治の台詞ではありませんが、「一つ二つはすぐに役にたち、他の幾つかは心の奥深く沈んでいつしか考え方に変化を生じせしめる」類のものでありたいのですが…、そして、本当はたまに、彼女らに対し理不尽で横暴な要求をし続けた時に追い詰められて舞台でどんな鮮やかな解決を示すのか見てみたい、けれど今は下手するとアカハラと言われかねないな、と思い直し、楽曲の中にある暴虐・残忍・エゴなどの解説に留めてしまってる毎日だったりもするのです。
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